21世紀の救急医療

2017年10月22日 18:20

https://www.youtube.com/watch?v=U7SLOgXPcXY
八戸東高校放送部作成

【プリベンタブルデス ある救急医の挑戦】16

2017年10月21日 18:23

【プリベンタブルデス ある救急医の挑戦】
龍田恵子 著
第1章 こちら救命救急センター
救急医になった理由⑥

日医大の救命救急センターは、一九九三年四月より全国センターの”TheBestofBests”として厚生省第一号の〈高度救命救急センター〉の認定も受けていた。「もう、日医大に行くしかない。どんなつらい思いをしても、國松長官を助けた人たちから救急を教わりたい。自分の外科医としての腕をふるいたい。一年間、日医大で頑張ってだめだったら、青森に帰ってこよう」
妻に自分の正直な気持ちを伝えると、「応援するわよ」と励まされた。
日医大で救急医療を勉強するという目標を掲げると、日々の仕事にも張りあいが出てくるのだった。希望に燃え、その時機を待っていたところに、川国市立医療センター救命救急センターの小関センター長から電話があった。彼は日医大の出身でもある。
「今さん、川回の救命救急センターには外科医が不足しているので来てくれませんか。ここに来れば即戦力になるから」
川国市立医療センターは日医大の関連病院であり、当時の日本救急医学会の研究発表の数では常に一位、二位の成績を修めていた。最新の医療設備、医療システムが備わった救命救急センターで、いきなり外科医という好条件が整っていた。明秀にとっては、これまた魅力的な話であった。妻に相談すると、すでに日医大に行くため青森を離れる覚悟でいたので、賛成してくれた。
一九九八年四月、明秀は通算十五年間の青森での医療活動に別れを告げ、川国市立医療センター救命救急センターに赴任した。新たな飛躍のときを迎えたのである。三十九歳だった。一から救急医療を学ぶつもりでいた明秀にとって意欲をかき立てられる現場だった。
「最初のころはいろいろと意見が食い違ったりしましたが、すべて従いました。自分のやり方が良いこともありましたが、川口ではどうやるのかなという興味もありました。経験を重ねているうちに、いろいろなことがわかってきました」
川回の救命救急センターでは、明秀は比較的軽症の患者でも断らずに引き受け、救急車が三台重なってしまい、処置室はてんやわんやの大騒ぎになることもあり、周囲から批判を浴びた。しかし、明秀はできる限り患者を受け入れるというスタンスを崩さなかったのである。
当直が週に三日という忙しさの中で、外傷の専門書を読む機会が多くなったのもこのころだった。とにかく川回の場合は症例数が多く、きょう勉強したことが来週には患者さんがきてその手術をする。うまくいかないと反省して本を読むと、また次に患者が来る。積み重ねていく経験、そして技術のレベルが確実に上がっていった。
「可能性があるかぎり助けたい」
明秀が重症の救急患者の処置に当たっているときでも患者を引き受けるのは、ほかの医療センターヘ行くと助かる命も助からないかもしれない、ここで助けたい、そんな救急医としての気概があるからだ。患者を断ってしまつては、救命救急の意味がないといっても過言ではない。
野口英世やブラック・ジャックに漠然とあこがれていたにすぎなかった少年がめざす医師像を描きはじめたのは、やはり自治医大卒業後のローテーション教育を受けているときだった。「地域医療に進んで挺身する気概」が養われ、さらに瀕死の救急患者を助けるのだという使命に燃えていったのである。
次回に続きます…

【プリベンタブルデス ある救急医の挑戦】15

2017年10月20日 18:20

【プリベンタブルデス ある救急医の挑戦】
龍田恵子 著
第1章 こちら救命救急センター
救急医になった理由⑤

そして、明秀が本格的に救急医をめざすきっかけになった二つの事件がある。一九八四年、青森県立中央病院で研修をしているときのこと、暴漢に刺された旅館の女将が運ばれてきたが、明秀は胸腔ドレーンを入れることしかできなかった。みんなで処置に当たったが、治療はそこまでしかできない。そのあと何をすればいいのか、誰も知らなかった。外科医を呼んだが、彼もわからない。患者が「痛い」「苦しい」とうなり声をあげているというのに、次ぎの一手がなく、まごまごしているうちに患者は死亡した。それは避けられた死であり、明秀はショックを受けた。
もう一つの事件とは、國松長官狙撃事件だ。
一九九五年三月三十日午前八時半ごろ、國松孝次警察庁長官が東京都荒川区の自宅マンションを出た直後に、背後から自転車で近づいてきた白マスクで登山帽の男に拳銃で狙撃され、腹部などに三発の銃弾を受けた。瀕死の重症だったが、搬送先の日医大附属病院で手術をして一命を取り留めたというニュースに明秀は興奮した。
「おお、これぞ外科医として生きる道だ!」
さらに高度な救命救急をめざしたいと思ったのである。青森の大間病院時代に本格的な救命救急の始まりを肌で感じた明秀がめざすものは、瀕死の重症患者を一人でも多く救うことだった。
なお、國松長官狙撃事件の犯人は見つからないままだったが、二〇〇四年七月、元オウム真理教信者の小杉敏行・元警視庁巡査長ら三人が殺人未遂容疑で逮捕された。しかし、東京地検は二十八日、起訴を見送り、刑事処分を保留したまま釈放した。結果的に立証できず、現在も未解決のままとなっている。
明秀は日医大の教授に電話をかけて相談すると、
「すぐに見学に来なさい」
早速、明秀は上京し、文京区にある日医大附属病院の救命救急センター(現・高度救命救急センター)へ行った。日医大附属病院は、日本の救命救急センターの草分け的存在である。東京都第二次救急(集中治療を要する救急患者を扱う)医療施設として、東京消防庁からの救急患者収容要請や二次救急病院からの転送依頼を断わらないという救急患者優先主義が開設以来の一貫した方針。一九七七年(昭和五十二)に救命救急センターが厚生省の指定する第三次救急医療施設として認可された。
明秀がそのパイオニアたる救命救急センターで目にしたのは、日夜、搬送されてくる救急患者の多さと、医師やスタッフが二十日も帰宅できずに狭い当直室に寝泊まりしながら、救命活動に当っている光景だった。
「これはたいへんだけど、やりがいがあるぞ。あのとき國松長官はここで助かったのだ。おれもやってみたい」
体中の血が騒いだ。やはり、青森県の救急医療とは規模がちがった。初期治療から手術、ICU管理まで、すべて救命救急センター専属の医師と看護師が二十四時間体制で治療にあたっている。一般外科救急科・脳神経外科・胸部外科・整形外科・麻酔科・精神科の専門医の資格をもつ救急専門集団が魅力的に映った。
次回に続きます…

【プリベンタブルデス ある救急医の挑戦】14

2017年10月19日 18:18

【プリベンタブルデス ある救急医の挑戦】
龍田恵子 著
第1章 こちら救命救急センター
救急医になった理由④

本州最北端の三方を海に囲まれた大間町の国民健康保険大間病院は、日本でも有数のへき地病院として完結型の治療を行い、救急のモデル病院でもあった。明秀は副院長として自治医大の同級生である官川副院長(内科と小児科)とともに二年間勤務した。明秀が着任するまでの大間病院は、まともな人工呼吸器が一台もなく、また外科医がいないときなど、患者の疾病が重症化した場合の対応がむずかしかった。たとえば心筋梗塞の場合、キリップ分類”四”の患者は全員死亡していた(キリップ分類の一は軽症、二、三、四と重症になる)。心筋梗塞は発症してから三時間以内にカテーテルの手術をすべきだといわれていたが、大間病院ではその特殊な手術をすることはできない。救急車を走らせて一時間でむつ総合病院、三時間で県立中央病院、あるいはフェリーに乗って九十分で函館の病院もあったが、重症患者を搬送することは不可能だった。キリップ分類”四”の心筋梗塞の死亡率は、東京都内では一桁でも大間町では通用しなかったのである。
腎不全の患者の場合は、人工呼吸器をつけ透析の治療もしなければならない。当時は透析の器械がなく、集中治療のほうで出始めていた血液濾過透析をした。普通はポンプを回して静脈に針を刺し血液を抜き、きれいにした血液を静脈に戻すのだが、大間で行った血液濾過透析は動脈に針を刺し血液をフィルターに通してきれいにしてからを静脈に戻すという方法だ。動脈と静脈の圧の差でフィルターを通すのでポンプは必要なかった。これで大掛かりな装置がなくても何人かの腎不全の患者が助かっている。
明秀は人工呼吸器の新型四台とペースメーカーの導入、開胸手術の設備、透析室の準備も始めた。大間病院は新しい病院だったが、軌道に乗ってくると患者数も増え、胆石や胃がんの手術も行うようになり年間の手術件数は一〇〇件を超えた。この小さな病院で百件というのはたいへんな数字で、それだけ町民に信頼されるようになったということだ。
「当初は内科、外科、訪問診療、在宅、検診、いろいろな問題が山積みされていましたが、努力すればたいていのことは解決できました。また、町の一員として地元の人たちとの交流も多かった」
明秀は大間町に来てから日本救急医学会で論文を発表してきたが、心臓カテーテルのことなどわからないことがあれば積極的に質問し、学会で得た知識を大間病院に持ち帰って実践することができた。
当時、日本救急医学会ではへき地の救急医療が取沙汰されたが、それまでは見向きもされなかったのである。シンポジウムの演題として明秀が提出した論文、「本州最北端の救急医療」が採用になり、スピーチをした。また、翌年のフオーラムセッションでは四十分のスピーチをして注目された。そのころから明秀は救急医学会とのつながりができ、へき地にも救急が必要であると痛感したのである。
次回に続きます…

【プリベンタブルデス ある救急医の挑戦】13

2017年10月18日 06:16

【プリベンタブルデス ある救急医の挑戦】
龍田恵子 著
第1章 こちら救命救急センター
救急医になった理由③

自治医大は栃木県河内郡南河内町に位置し、周辺はいまでこそ緑豊かな町並みが広がっているが、明秀が入学したころは、畑の真ん中に建っていて、「青森の田舎よりもっと田舎だった」という。自治医大は在学六年間の全寮制で、「自律協調の精神と責任感を涵養する」という目的があり、人間的成長のステップアツプの場である。医療現場において、一人では「いい医師」にはなれない。まず、患者がいる、スタッフとの連携がある。信頼と思いやり。ここでの六年間は、他者との関係性の中で自分が成長していく貴重な時間なのである。
明秀が自治医大のことを語るとき「洗脳された」という表現が飛び出す。「洗脳」といえば、昨今はマイナスのイメージがつきまとうようになってしまったが、明秀がいう「洗脳」とは、自分がめざすべき医師や医療のかたちをここで教えてもらい、とてもいい影響を受けたという意味のことだろう。
「いまも、自治医大の卒業生たちとは特別な関係にあります。学会などで先輩や後輩に会うと、やあと気軽に挨拶できる人ばかりで、自治医大の卒業生でよかったなと思います」
確かに明秀が自治医大に進んでいなければ、現在のような救急医にはなっていなかったといっても過言ではない。自治医大とはどんな大学であるのか、ここで少しだけ説明を加えておきたい。
一九七〇年(昭和四十五)七月四日、時の秋田自治大臣がへき地医師を確保するための「医学高等専門学校設立構想」を表明し、「医療に恵まれないへき地における医療の確保および向上と地域住民の福祉の増幅を図る」ことを目的として、各都道府県の知事による医科大学発起人会が発足した。一九七二年二月五日に学校法人自治医科大学設置認可、四月十三日に開学式が行われた。
毎年、各都道府県から二、三人ずつ百人の学生が選抜されるが、入学試験は第一次試験を各都道府県で実施、その合格者に対する第二次試験は大学で実施される。〈豊かな人間性〉と〈広い視野〉をもつ総合医の育成を教育目標に掲げる自治医大の特徴として、面接をかなりの割合で重要視し、個人面接とグループ討論を行い、地域医療に挺身する気概と情熱に富んだ優秀な学生を選抜するというスタンスである。
学生は六年間の一貫教育を経て、卒業後二年間は、医師法に定める臨床研修指定病院や大学附属病院で臨床研修を行う。二、三年間はへき地などの病院、診療所や保健所に勤務し、さらに後期研修を一、二年、複雑化する疾病構造や保健、福祉などの問題に、適切に対応し得る高度な医学知識、臨床的実力を身につけたあと、再び地域医療に従事して、ようやく九年間の義務年限明けとなる。義務年限に達した者は、入学時の資金貸与の返済が免除される。これは、入学金だけでなく、学費も免除され、生活費の一部が支給される。その他に防衛医大、産業医大もこれに似たシステムをとつている。明秀は自治医大を卒業後、青森県立中央病院で二年間の臨床研修をへた後、同県東南部に位置する倉石村の診療所を皮切りに、公立野辺地病院、六戸町国民健康保険病院、大間病院など四カ所の病院に勤務した。特に大間病院での二年間の経験は、明秀の人生にとって大きな転機となったのである。