へ(戸)と源義経とジンギスカン その4

2013年03月01日 18:03

義経が六ヶ所村から青森に向って出発する時、
橋本家の主人がお供を申し出ました。

義経一行は途中、
七戸を超えたところで休憩します。
そこは現在の東北町石文。
その村にある「日本中央の碑」に寄り、
義経は坂上田村麻呂を偲んで歌を詠みました。
「三熊野に つづく小山のふみ石を
          見るにつけても都恋しき」

坂上田村麻呂は初代征夷大将軍です。
青森ねぶた祭りの題材によく使われます。

さらに橋本家当主は善知鳥村(青森市)までお供をし、義経一行と別れました。
義経は、附近一帯が広々とした原野だった善知鳥村を指差し
橋本家当主に開拓するように言いました。
橋本家当主はその指示に従い、この地に留まり開拓に従事しました。
DSCF3283 (500x281)

その地は善知鳥村橋本の地名となり。
現在の青森市橋本の由来です。

「日本中央」と刻まれ、
「つぼのいしぶみ」として数々の伝説と謎を呼んだ石碑が、
現在、青森県東北町の「日本中央の碑保存館」に鎮座しています。
9世紀初頭、大和朝廷による蝦夷征討が北上し、
坂上田村麻呂征夷大将軍が陸奥(青森県)の奥地、
都母(つも・つぼ-現在の東北町)の地に、
大きな石の石面に弓の矢で「日本中央」と彫り、
建立したと云います。
日本中央の碑 (500x375)

その後、「つぼのいしぶみ」として都に知れ渡り、
多くの歌人に詠まれました。
日本中央の碑2(500x375)

義経も文化人であったので、その存在をしていたのでしょう。

「日本」は「日の本(ひのもと)」と読み、
当時、大和朝廷の支配に屈しなかった先住民の居住地を指す呼び名で、
大和朝廷の支配地が北進するにつれ、
その地域も北へ北へと次第に狭まり、
陸奥の「都母」(つぼ)がその中心(中央)であった
とする説が妥当と考えられています。
「つぼのいしぶみ」の由縁です。
(続く)




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