【プリベンタブルデス ある救急医の挑戦】16

2017年10月21日 18:23

【プリベンタブルデス ある救急医の挑戦】
龍田恵子 著
第1章 こちら救命救急センター
救急医になった理由⑥

日医大の救命救急センターは、一九九三年四月より全国センターの”TheBestofBests”として厚生省第一号の〈高度救命救急センター〉の認定も受けていた。「もう、日医大に行くしかない。どんなつらい思いをしても、國松長官を助けた人たちから救急を教わりたい。自分の外科医としての腕をふるいたい。一年間、日医大で頑張ってだめだったら、青森に帰ってこよう」
妻に自分の正直な気持ちを伝えると、「応援するわよ」と励まされた。
日医大で救急医療を勉強するという目標を掲げると、日々の仕事にも張りあいが出てくるのだった。希望に燃え、その時機を待っていたところに、川国市立医療センター救命救急センターの小関センター長から電話があった。彼は日医大の出身でもある。
「今さん、川回の救命救急センターには外科医が不足しているので来てくれませんか。ここに来れば即戦力になるから」
川国市立医療センターは日医大の関連病院であり、当時の日本救急医学会の研究発表の数では常に一位、二位の成績を修めていた。最新の医療設備、医療システムが備わった救命救急センターで、いきなり外科医という好条件が整っていた。明秀にとっては、これまた魅力的な話であった。妻に相談すると、すでに日医大に行くため青森を離れる覚悟でいたので、賛成してくれた。
一九九八年四月、明秀は通算十五年間の青森での医療活動に別れを告げ、川国市立医療センター救命救急センターに赴任した。新たな飛躍のときを迎えたのである。三十九歳だった。一から救急医療を学ぶつもりでいた明秀にとって意欲をかき立てられる現場だった。
「最初のころはいろいろと意見が食い違ったりしましたが、すべて従いました。自分のやり方が良いこともありましたが、川口ではどうやるのかなという興味もありました。経験を重ねているうちに、いろいろなことがわかってきました」
川回の救命救急センターでは、明秀は比較的軽症の患者でも断らずに引き受け、救急車が三台重なってしまい、処置室はてんやわんやの大騒ぎになることもあり、周囲から批判を浴びた。しかし、明秀はできる限り患者を受け入れるというスタンスを崩さなかったのである。
当直が週に三日という忙しさの中で、外傷の専門書を読む機会が多くなったのもこのころだった。とにかく川回の場合は症例数が多く、きょう勉強したことが来週には患者さんがきてその手術をする。うまくいかないと反省して本を読むと、また次に患者が来る。積み重ねていく経験、そして技術のレベルが確実に上がっていった。
「可能性があるかぎり助けたい」
明秀が重症の救急患者の処置に当たっているときでも患者を引き受けるのは、ほかの医療センターヘ行くと助かる命も助からないかもしれない、ここで助けたい、そんな救急医としての気概があるからだ。患者を断ってしまつては、救命救急の意味がないといっても過言ではない。
野口英世やブラック・ジャックに漠然とあこがれていたにすぎなかった少年がめざす医師像を描きはじめたのは、やはり自治医大卒業後のローテーション教育を受けているときだった。「地域医療に進んで挺身する気概」が養われ、さらに瀕死の救急患者を助けるのだという使命に燃えていったのである。
次回に続きます…

【プリベンタブルデス ある救急医の挑戦】14

2017年10月19日 18:18

【プリベンタブルデス ある救急医の挑戦】
龍田恵子 著
第1章 こちら救命救急センター
救急医になった理由④

本州最北端の三方を海に囲まれた大間町の国民健康保険大間病院は、日本でも有数のへき地病院として完結型の治療を行い、救急のモデル病院でもあった。明秀は副院長として自治医大の同級生である官川副院長(内科と小児科)とともに二年間勤務した。明秀が着任するまでの大間病院は、まともな人工呼吸器が一台もなく、また外科医がいないときなど、患者の疾病が重症化した場合の対応がむずかしかった。たとえば心筋梗塞の場合、キリップ分類”四”の患者は全員死亡していた(キリップ分類の一は軽症、二、三、四と重症になる)。心筋梗塞は発症してから三時間以内にカテーテルの手術をすべきだといわれていたが、大間病院ではその特殊な手術をすることはできない。救急車を走らせて一時間でむつ総合病院、三時間で県立中央病院、あるいはフェリーに乗って九十分で函館の病院もあったが、重症患者を搬送することは不可能だった。キリップ分類”四”の心筋梗塞の死亡率は、東京都内では一桁でも大間町では通用しなかったのである。
腎不全の患者の場合は、人工呼吸器をつけ透析の治療もしなければならない。当時は透析の器械がなく、集中治療のほうで出始めていた血液濾過透析をした。普通はポンプを回して静脈に針を刺し血液を抜き、きれいにした血液を静脈に戻すのだが、大間で行った血液濾過透析は動脈に針を刺し血液をフィルターに通してきれいにしてからを静脈に戻すという方法だ。動脈と静脈の圧の差でフィルターを通すのでポンプは必要なかった。これで大掛かりな装置がなくても何人かの腎不全の患者が助かっている。
明秀は人工呼吸器の新型四台とペースメーカーの導入、開胸手術の設備、透析室の準備も始めた。大間病院は新しい病院だったが、軌道に乗ってくると患者数も増え、胆石や胃がんの手術も行うようになり年間の手術件数は一〇〇件を超えた。この小さな病院で百件というのはたいへんな数字で、それだけ町民に信頼されるようになったということだ。
「当初は内科、外科、訪問診療、在宅、検診、いろいろな問題が山積みされていましたが、努力すればたいていのことは解決できました。また、町の一員として地元の人たちとの交流も多かった」
明秀は大間町に来てから日本救急医学会で論文を発表してきたが、心臓カテーテルのことなどわからないことがあれば積極的に質問し、学会で得た知識を大間病院に持ち帰って実践することができた。
当時、日本救急医学会ではへき地の救急医療が取沙汰されたが、それまでは見向きもされなかったのである。シンポジウムの演題として明秀が提出した論文、「本州最北端の救急医療」が採用になり、スピーチをした。また、翌年のフオーラムセッションでは四十分のスピーチをして注目された。そのころから明秀は救急医学会とのつながりができ、へき地にも救急が必要であると痛感したのである。
次回に続きます…

【プリベンタブルデス ある救急医の挑戦】13

2017年10月18日 06:16

【プリベンタブルデス ある救急医の挑戦】
龍田恵子 著
第1章 こちら救命救急センター
救急医になった理由③

自治医大は栃木県河内郡南河内町に位置し、周辺はいまでこそ緑豊かな町並みが広がっているが、明秀が入学したころは、畑の真ん中に建っていて、「青森の田舎よりもっと田舎だった」という。自治医大は在学六年間の全寮制で、「自律協調の精神と責任感を涵養する」という目的があり、人間的成長のステップアツプの場である。医療現場において、一人では「いい医師」にはなれない。まず、患者がいる、スタッフとの連携がある。信頼と思いやり。ここでの六年間は、他者との関係性の中で自分が成長していく貴重な時間なのである。
明秀が自治医大のことを語るとき「洗脳された」という表現が飛び出す。「洗脳」といえば、昨今はマイナスのイメージがつきまとうようになってしまったが、明秀がいう「洗脳」とは、自分がめざすべき医師や医療のかたちをここで教えてもらい、とてもいい影響を受けたという意味のことだろう。
「いまも、自治医大の卒業生たちとは特別な関係にあります。学会などで先輩や後輩に会うと、やあと気軽に挨拶できる人ばかりで、自治医大の卒業生でよかったなと思います」
確かに明秀が自治医大に進んでいなければ、現在のような救急医にはなっていなかったといっても過言ではない。自治医大とはどんな大学であるのか、ここで少しだけ説明を加えておきたい。
一九七〇年(昭和四十五)七月四日、時の秋田自治大臣がへき地医師を確保するための「医学高等専門学校設立構想」を表明し、「医療に恵まれないへき地における医療の確保および向上と地域住民の福祉の増幅を図る」ことを目的として、各都道府県の知事による医科大学発起人会が発足した。一九七二年二月五日に学校法人自治医科大学設置認可、四月十三日に開学式が行われた。
毎年、各都道府県から二、三人ずつ百人の学生が選抜されるが、入学試験は第一次試験を各都道府県で実施、その合格者に対する第二次試験は大学で実施される。〈豊かな人間性〉と〈広い視野〉をもつ総合医の育成を教育目標に掲げる自治医大の特徴として、面接をかなりの割合で重要視し、個人面接とグループ討論を行い、地域医療に挺身する気概と情熱に富んだ優秀な学生を選抜するというスタンスである。
学生は六年間の一貫教育を経て、卒業後二年間は、医師法に定める臨床研修指定病院や大学附属病院で臨床研修を行う。二、三年間はへき地などの病院、診療所や保健所に勤務し、さらに後期研修を一、二年、複雑化する疾病構造や保健、福祉などの問題に、適切に対応し得る高度な医学知識、臨床的実力を身につけたあと、再び地域医療に従事して、ようやく九年間の義務年限明けとなる。義務年限に達した者は、入学時の資金貸与の返済が免除される。これは、入学金だけでなく、学費も免除され、生活費の一部が支給される。その他に防衛医大、産業医大もこれに似たシステムをとつている。明秀は自治医大を卒業後、青森県立中央病院で二年間の臨床研修をへた後、同県東南部に位置する倉石村の診療所を皮切りに、公立野辺地病院、六戸町国民健康保険病院、大間病院など四カ所の病院に勤務した。特に大間病院での二年間の経験は、明秀の人生にとって大きな転機となったのである。

【プリベンタブルデス ある救急医の挑戦】12

2017年10月17日 18:13

【プリベンタブルデス ある救急医の挑戦】
タツタ恵子 著
第1章 こちら救命救急センター
救急医になった理由②

県立青森高校に入学した明秀は大学進学については漠然としており、のんきにかまえていたようなところがあった。ただ、教科では生物が得意で成績は抜群によかった。本人も気づかないところで、医学への道の道標が立っていたのかもしれない。ただ、明秀は例のごとく、周りにも影響されやすいので、誰かが北海道大学や東北大学を志望するといえば、「なんだか、よさそうだなあ」と思うのだが、なぜか東京の大学に進みたいとは思わなかった。
「それが青森の人間のさがなんでしょうかね。東京は陸つづきなのに外国みたいな感じだった」と当時を振り返る。
あるとき同級生と会話を交わしているうちに、「そうか、医学部というのは日の当たるところで、医者になれば職業的にもみんなから尊敬され、生活も安定しているのだ」と明秀は思い込むのだが、入学できる人数は限られているし、自分は問題外だとも思った。ところが、自分より成績の悪い人でも医学部を志望していることがわかり、「医学部もいいのかな。受けてみようか」などと考えるようになった。どうやら、明秀が高校の成績で受験する大学を選んだという
のが事実のようである。
私がこれまで会った何人かの医師も学校の成績で医学部を選んだのを知っていたので、さらに認識を強くした。子どものころから医者にあこがれ医者をめざしてきたという人のほうが少ないのかもしれない。学校の成績だけで、職業を選ぶことに矛盾を感じたりするのだが、実際に医者は並々ならぬ能力が要求されるため、成績優秀であるということは重要だ。
さて、医学部も受けようと決めた明秀、早くも描く医者のイメージも固まっていた。それは都会の大学病院の医師ではなく、福島県の猪苗代で生まれ育った野口英世のようなイメージだった。野口英世といえば、子どものころに負った火傷がきっかけで医者になることを決意し、独学で医術国家試験に合格したが、日本では学歴のないことが妨げとなったため、南米に渡って黄熱病の病原菌を発見し、その研究に心血を注いだ人である。いわば、逆境をバネにして信念を貫いた偉い人というのが、私たちが子どもだったころに知った話で、「尊敬する人ベストテン」の上位にランクされるような人だった。長じてからは、彼に関する意外な面も明らかにされて、むしろ人間的な興味を抱かせる人物として映ったが、若い医学者たちへの支援を惜しまなかった研究者でもあった。明秀は、順風満帆の都会的でスマートな医師よりも、どちらかといえば、田舎育ちの逆境に強い野口英世に将来の自分を重ね合わせたのだろう。
いよいよ受験の時期が近づいてきた。
明秀は志望大学として、まず弘前大学医学部、そして将来的に水族館勤務というふわりとした夢も捨てきれずその布石としての東北大学生物学部と決める。ところが、ここで自治医科大学(以下、自治医大)というあまり耳にしたことのない大学を受ける同級生がいると知って情報を集めてみると、へき地に行く医師を養成する大学だという。これにはなんの抵抗もなかった。しかも、学費がタダなので(このシステムについては後述)、都道府県から各二、三人しか入学できないという狭き門。さらに青森高校では自分よりも成績のいい人間が受験するというので、「これはかなりむずかしいかもしれない」と思ったが、明秀は医者としてのイメージが自分に近いことから自治医大を受験することにした。
青森市で行われた自治医大の一次試験に合格、二次試験は本拠地の栃木県へ受けに行った。宿泊先の旅館には各都道府県からやつてきた賢そうな受験生ばかりがいるので、「こんな人たちが受ける自治医大っていうのはすごいなあ。ひょっとして、これも一流の大学なのかなあ」などと感心することしきりだつた。
自治医大と東北大学に見事合格した明秀は地元の弘前大学医学部も魅力的だったが、迷うことなく受験せず、東北大学へも断りの手紙を出して、自治医大に進学することに決めたのである。自治医大は各都道府県から二、三人しか入学できない。青森県出身の残りは、青森高校の同級生と八戸高校の一人だった。自治医大の六期生として入学したのである。

【プリベンタブルデス ある救急医の挑戦】11

2017年10月16日 18:09

【プリベンタブルデス ある救急医の挑戦】
龍田恵子 著
第1章 こちら救命救急センター
救急医になった理由①

救急現場を取材してみて、私はあらためて救急医をはじめとするスタッフの救命に当たる懸命な姿に心打たれた。さらに、想像を絶するような症例の数々と非日常の出来事を聞かされ、正直いって驚嘆するばかりだった。
「今先生はなぜ、医師になろうと思ったのですか?」
しかも、二十四時間態勢で取り組む救急医に……。月並みな質問を向けてみると、「う―ん、あらためて聞かれるとむずかしい」などと前置きして、明秀は音を思い出しながら語り始めた。
今明秀は一九五八年(昭和三十三)十一月十三日、青森市の佃という海辺の町で生まれた。小学校のころは理科が好きで、特に水族館で海の生物たちを飽きることなく眺め、生き物や人のからだのメカニズムには人一倍興味を持った。命のかたちってなんだろうか、と子どもが考えるとき、例えば、カエルの心臓が動いていることと、つぼみだったアサガオが翌朝に開花することは同じである。動いていることが「生きていること」であると認識できる。動かなくなってしまつたら「死んでしまうこと」であると認識する。それでは、なぜ、生きているのだろうか?なぜ、動くのだろうか?と疑間がわく。明秀は無意識のうちに「命のしくみ」を知っていくおもしろさにめざめた。また、小学校の低学年のときに野口英世の伝記を読んで、漠然とではあるが医者にあこがれたという。
そして、一九七三年に手塚治虫の『ブラック・ジャック』が登場した。これを読んだ人のほとんどが、無免許の天才医師、特異なアウトサイダー医師に魅かれ、救命のあり方に感動を覚えた。どんな重症の患者も手術して治してしまうブラック・ジャックは、少年少女だけでなく、大人たちの心もとらえた。当然、中学三年生だった明秀もブラック・ジャックにあこがれた。
「とにかくブラック・ジャックはかっこよかった。彼は誰もできないような手術をして患者の命を救う正義の味方。こんな医者がいたらいいなあとあこがれたのでしょうね」
『ブラック・ジャック』の一回一話完結のストーリーは、それぞれの人間が抱えもつ「命の重さ」をテーマとし、必ず微細な手術シーンが登場した。ブラック・ジャックはリッチマン、プアマンも、そして善人も悪人も助ける。孤立無援(ピノコという助手がいたが)の、クールにも見えるブラック・ジャックだが、自身が大きな傷を負ったからこそ、命の大切さを知る、血の通ったヒューマンな医師である。
ブラック・ジャックは初登場から三十年経ったいまも人びとの心をとらえて離さない。特に医学の道を歩もうとする若い人たちが理想とする医師の姿であるのか、『ブラック・ジャックによろしく』という人気コミックのテレビドラマ化もされた。それほど、手塚治虫の産物であるブラック・ジャックが人びとに及ぼした影響は大きい。どこにも属さず、何者にも縛られず、もちろん権威などとも無関係なブラック・ジャックの自由な精神は、日本の医療制度のあり方にも一石を投じたのではないだろうか。